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(紫友同窓会会報 第41号の記事に加筆)
現在 都立小石川中等教育学校が建つ場所は、1918年(大正7年)に 府立五中が創立した時と同じ校地です。 第二次世界大戦の戦災のために校舎は全焼し、疎開 と 2回の移転 を余儀なくされましたが、1957年(昭和32年)に ”駕籠町”に戻ってくることができました。 五中 ・小石川 の95年の歴史を、校舎の変遷からたどります。

大 正 時 代  : 開校前夜
 1918年(大正7年)8月17日: 東京府立 第五中学校の設置認可
             10月5日: 開校の告示、 校地は現在地と同じ

1916年(大正5年)の地図
明治42年測量、
大正5年第1回修正測量
「早稲田」に加筆

大日本陸地測量部/国土地理院
地図サイズ 400 × 300
 
山手線は 1910年(明治年)に複線化され、中仙道には市電も走って いっそう便利になってきた巣鴨附近。校地は巣鴨病院の前庭だった場所で、当時の住所は、
    東京府東京市小石川区 駕籠町 41番地

 1919年(大正8年)1月:
     東京高等師範学校附属中学校教諭の伊藤長七が、初代校長に任じられる

開 校
 1919年(大正8年)4月1日: 東京府立 第五中学校 開校

校舎は一部分を建設した状態で開校されました。現在の不忍通りがなかったため、正門は中仙道側となりました。 (下図 参照)


1916年(大正10年)の地図
明治42年測量、
大正10年第2回修正測量
「早稲田」に加筆

大日本陸地測量部/国土地理院
地図サイズ 400 × 300
 
現六義園の周りは整地されて、大和村分譲地となります。この地図では、まだ校地が広がる前の状態。校舎も一部しかできていません。
 1921年(大正10年) :
      財団法人 紫友会から運動場(1,338坪、4,423平米)が寄付される

 1922年(大正11年)11月1日 : 開拓館 完成
財団法人紫友会が建設し、学校に寄付しました。

開拓館とは、2階に図書室 1階に畳敷きの部屋を設け、「紳士の卵に日本の礼儀を教える」ことを目的とした 「修養道場」のような校舎でした。後に柔道場として使われ、戦時中には空襲警戒時の生徒の宿舎としても使われました。
2階の図書室は、邦書に限らず 英語の原書が金文字の背表紙でずらりと並ぶほどの、膨大な蔵書量だったそうです。

 1923年(大正12年)9月1日: 関東大震災
幸いにも校舎の損害は軽度でした。近辺の住民の避難所となり、被害の大きかった府立三中(現 都立両国高校)の生徒の一部を引き受けました。


コの字型に完成した校舎、左端に開拓館が写っています。

 1924年(大正13年)3月: 校舎を私立東京五中夜学校に貸与 


昭 和 時 代

1929年(昭和4年)の地図
明治42年測量、
昭和4年第3回修正測量
「早稲田」に加筆

大日本陸地測量部/国土地理院
地図サイズ 400 × 300
 
校地が広がり 不忍通りができて市電も通っています。講堂はまだですが、ほぼシンメトリーの新校舎は完成しており、開拓館も載っています。
分譲された大和村には、邸宅が並びました。

 1930年(昭和5年)2月 : 講堂が着工、 同年 12月 竣工
講堂は後に戦災で大きな損傷を被りますが、基本構造はそのままに修復されて、長く使われました。写真の撮影年は不詳。

 1930年(昭和5年)4月: 初代校長 伊藤長七が亡くなる。
 1931年(昭和6年)2月: 中庭に長七の胸像が設置される。
講堂の完成を見ることなく亡くなりました。その胸像は、現在 学校の正面玄関に据えられています。

 1932年(昭和7年)9月: 水泳プール 開設
駕籠町交差点上空から。 校舎の配置は1929年(昭和4年)の地図と同じです。屋外プールは戦災を乗り越え、講堂と同様に、平成の改築が行われるまで 実に 60年間にわたって授業や部活で活用されました。


1937年(昭和12年)の地図
明治42年測量、
昭和12年第4回修正測量
「早稲田」に加筆

大日本陸地測量部/国土地理院
地図サイズ 400 × 300
 
講堂ができていますが、プールが載っていません。開拓館は残っています。

 1943年(昭和18年)7月1日: 東京都制施行で、都立第五中学校と改称
 1945年(昭和20年)4月13日 から 14日: 空襲により校舎全焼。
              4月25日: 東京都 明化国民学校に疎開

空襲から2年後
1947年(昭和22年)8月8日
 の空中写真に加筆

(敷地の範囲に
   未確認事項あり)

撮影は米軍/国土地理院
写真サイズ 400 × 300
 
前掲の地図とは縮尺が違います。 
後の体育館の敷地(南側)は、校地との境界に塀や柵などがなく、借りていた可能性があります。また、不忍通り側プール横の校地(後の正門の位置)についても、当時どこまでが境界だったか確認できていない部分があります。


終 戦 後
 1945年(昭和20年)11月12日:
  滝野川区滝野川の 旧陸軍東京第一造兵廠内 青年学校に移転

 
 1946年(昭和21年)11月13日:
  小石川区同心町の 小石川高等小学校 ・東京都立小石川工業学校
                          (旧東京市立実業補修学校)校舎に移転
同心町校舎の敷地は狭く、校庭はアスファルト、暗灰色の校舎は西洋の僧院を思わせる陰気な建物でした。当初は高等小学校(翌年に文京三中となる)や、夜学の工業高校との同居で、管理上の苦労が絶えなかったといいます。男子生徒の体育の授業は駕籠町の旧五中グラウンドまで移動して行われていました。

 1947年(昭和22年)3月15日:
     市街地編成により、小石川区と本郷区が合併して 文京区 となる。
 1948年(昭和23年)4月1日:
   新学制施行により、都立第五新制高等学校 と改称

戦後の駕籠町校舎の様子
隣地、後の理化学研究所の屋上から。
撮影年月は不明ですが、中仙道沿いには家が建っていますから、前掲の1947年(昭和22年)よりは後の撮影です。焼け跡はそのままですが、グラウンドでは同心町校舎から来た生徒たちの体育の授業が行われています。

 1950年(昭和25年)1月: 校名を 東京都立小石川高等学校 と改称
校名改称にあたっては生徒に希望調査が行われましたが、澤登哲一校長の一言、「地名が一番簡潔」という理由で、同心町校舎時代の1950(昭和25)年に「小石川」に定まりました。

その一方で、前述のように同心町校舎の環境が悪かったため、駕籠町校舎への復帰の議論は早くから出ていました。
ところが1950年頃、旧五中の焼け跡地に都営住宅を建てる計画が持ち上がり、計測のための杭打ちが始まると、澤登校長はその杭を夜のうちに引き抜く、ということを何度も繰り返しました。五中・小石川高の本拠地はあくまで駕籠町にあり、いつか復帰するのだという強い意思を表明するため、土地の権利を手放さず、澤登校長は都に対して一大反対運動を展開して、校地として復活決定に持ち込みました。

 1953年(昭和28年)4月: 駕籠町校舎講堂の 屋根・床の修繕が行われる
講堂はその後、基本構造はそのままに修復されました。 現在の新校舎を建設するために 1992年(平成4年)に取り壊されるまで、入学式や卒業式が行われ、柔道の授業、芸能祭の舞台としても使われました。 
また1階には 工芸室などの教室、生徒会ほかの部屋を備え、生徒たちに活用されました。
 1954年(昭和29年)6月: 東京都予算で、駕籠町校舎復興が決定
 1955年(昭和30年)4月: 一期工事(B棟)着工。 11月: 9教室 完成
 1956年(昭和31年)4月: 新1年生は駕籠町校舎に


1956年(昭和31年)の地図
明治42年測量、
昭和31年第5回修正測量
「早稲田」に加筆

国土地理院
地図サイズ 400 × 300
 
黒い色はコンクリート造で、小石川高校では残った講堂に加えて 新しく 前掲写真の B棟だけができています。そして今度はプールも載っています。

 1957年(昭和32年)3月: 二期工事(A棟) 竣工
 1957年(昭和32年)4月: 全学年揃っての入学式、始業式が行われる
4月5日〜11日の同心町校舎からの引っ越しは、教員・生徒の手作業で、壊れやすい理科の実験器材や貴重品は手運びで行われました。

4月13日に全学年揃っての入学式、始業式が行われます。始業式において澤登哲一校長は、ユーモアたっぷりの含蓄ある澤登節を披露しました。「皆さんのお骨折りで立派な校舎ができたが、ほんとは、入れ物なんてどうでもよかったのだ。要は中身である。 蒔絵の重箱に馬糞を入れたような結果にならないよう、お互いに切磋琢磨、新校舎を磨くよりは、中身をしっかり磨いてもらいたい。」 駕籠町復帰に尽力された澤登校長は、翌年都立新宿高校へ異動されます。

 1959年(昭和34年)2月: 正門前庭に 卒業生による記念植樹が行われる
この植え込みは、後に「ハワイ」と呼ばれるようになります。

植樹した卒業生のうち、0 11回生は新校舎に初めて入学した学年です。
 1961年(昭和36年)1月: 校地 288坪(約 952平米)が拡張される
 1961年(昭和36年)7月: 体育館が完成




体育館



講堂、B棟



A棟
ハワイ

プール

 1962年(昭和37年): 三期工事(C 棟)着工。 翌年に一部完成
1963(昭和38)年度より、8クラス(A 〜 H 組)から 9クラス( I 組)に学級増となるために C 棟が増築されます。さらに、同年度は臨時学級増のため もう1クラス(J 組)ができ10クラスとなります。
C 棟は1966年、1971年に4教室ずつ増設されて完成します。

 1966年(昭和41年)4月1日:
     住居表示の実施により、校地の住居表示が 文京区本駒込 2-29-29 となる
 1968年(昭和43年)7月: 紫友会館 落成
創立50周年事業として 財団法人紫友会から学校に寄付されました。紫友会館には1977年(昭和52年)まで食堂がありました。開設当時、うどん・そば35円、カレーライス 70円(大盛り105円)でした。

 1970年(昭和45年)3月: 講堂が改修される
写真の撮影時期は 後の時代。 ラグビー部が練習中。
 
 1971年(昭和46年)3月: C 棟に4教室増設して 三期工事完了
がC 棟、 後年 1985年(昭和60年)の写真

 1973年(昭和48年)3月: 生徒部室 完成
     校門西側 都交通局の用地 185平米が、本校用地として移管される

 1983年(昭和58年)11月: A 棟 増築
次年度に臨時学級増(J 組)があるために、音楽教室と準備室が増設されました。 壁面には校章のレリーフが付けられています。
同時に前庭の「ハワイ」が校舎沿いに移築されました。


平 成 時 代
 1990年(平成2年): 校舎の全面改築開始
校舎老朽化のため、校舎を改築することが1987(昭和62)年に決定。グラウンドに新校舎を建てた後、旧校舎跡地にグラウンドを設ける方式となりました。
グラウンドが使えない期間、体育祭の本大会は六義園運動場を、部活は他校の校庭や公共の施設を利用していました。

 1992年(平成4年)3月: 新校舎 一期工事完成
             4月: 旧校舎の取り壊し開始
 1994年(平成6年)5月: 二期工事完成
             11月: 校舎改築落成式

 2006年(平成18年)4月:
           中高一貫6年制の 東京都立小石川中等教育学校 開校

 2011年(平成23年)3月15日: 東京都立小石川高等学校 閉校
閉校式が行われましたが、今も小石川 の名は引き継がれています。

紫友同窓会によって 4本のシュロの記念植樹が行われました。新しい「ハワイ」の復活です。写真は 栗原前校長 と 石川 紫友同窓会会長。

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